2023年5月15日 5:44 pm
プロフィール
- 1980年5月生まれ
- 三輪南保育所、三輪南小学校、三輪中学校卒業、県立加納高校卒業
- 2000年 日本共産党入党(20歳)
- 2005年 立命館大学文学部哲学科 卒業
- 2005年 生活協同組合コープぎふ 勤務(24歳)
- 2007年 岐阜市議選初当選(26歳)
- 2015年 岐阜県議選初当選(34歳)現職
ご挨拶
こんにちは。中川ゆう子です。私は1980年5月に、岐阜市三輪で産まれました。父の実家は滋賀県長浜市ですが、父が愛知県の日本福祉大学に通うために故郷を離れ、学生時代に出会った母の実家である三輪太郎丸の今の場所に住むようになったそうです。
私の幼少期は、父が動物好きだったこともあり、犬3匹、文鳥やインコ・ニワトリなど多くの動物に囲まれて育ちました。そのため今でも犬は好きです。
私の家族-日々のくらしから政治への思い―
私の母は岐阜市三輪で生まれ育った人で、実家は元々縫製の工場を経営していました。住み込みで働く従業員の方が大勢いて、そのための宿舎もありました。主に加納にあったアパレル企業の礼服をつくっていました。その経営主だった祖父-母の実父ですが-は40代の若さで亡くなっていて私は写真でしか知りません。祖母は早くに夫を亡くし、あとは女手ひとつで2人の娘を育て、工場を守り、懸命に生きてきた人です。その祖母は、いま85歳になります。私が8年前、市議選への立候補を決意し、「共産党から出るんだ」と話した時、いろいろ心配していました。しかし、私が当選し、地元の敬老会に市議として来賓に招かれて挨拶をすると聞くと、今まで「敬老会なんか行かない」と言っていた祖母が、友達と語らって「ゆう子が喋るそうだからみんなで見に行こう」と盛り上がり、来てくれたりしました。今では私を経由してすっかり市政にも詳しくなり「そろそろ3月議会が始まるね」「質問が始まったね」と言います。孫の私を通じて、政治とか共産党に出会ってくれたようなもので、うれしく思っています。
祖母と暮らしていると、やはりお年寄りの方が安心できるくらしを、ということを切に思います。滋賀県の父方の祖父はちょうど1年前、去年(2014年)の今頃に亡くなりました。身体の自由が奪われていくのに、それを受け入れてくれる施設がない。十分な介護を受けられず、最後は病院で生涯を終えました。施設の整備という問題は、自分の体験からも本当に切実に感じます。生活相談でもこんなことがありました。梅林地域のアパートで2人暮らしのお母さんと、40代の息子さん。4階建てだったせいかアパートにエレベーターはなく、足腰が弱ったお母さんは住めなくなってしまい、引っ越すことにした。ところが、今度は息子さんが病気で療養生活になり、就職活動もままならない。そんなある晩のこと、お母さんがトイレで転んで救急車を呼ぶことになり、切羽詰まった息子さんから私に電話が入りました。夜中でしたが、事情を聴いて、幸い三輪地域でお母さんを引き受けてくれる施設が見つかり、手配することができました。引っ越した先は長良八代のあたりにあるため、息子さんはバスを乗り継いでお母さんの施設に通うという、母子バラバラの生活を余儀なくされています。こういう状況で家族が互いに不安を抱え、互いを心配しながら別々に暮らさなければならないのは、辛いです。私はすぐ近くで祖母を見てきたからこそ、一層強く思います。そして、それは私の政治家としての原点の一つとして、常に私の心の中にあるのです。
子供のころの夢と父の背中
さて、話を少し戻します。私の子供のころの話です。私は「将来の夢」というほどではないですが、周りに大勢いた「憧れの大人の人」になりたいと思っていました。エレクトーンを習っていた先生も素敵な大人で、こんな先生になりたいな、とか。両親とか祖母とか、そういう大人たちのあたたかい関係が身近にあって、「あんなふうになりたいな」と憧れたのかもしれません。そういう大人の一人であった私の父が、高校生の私に紹介してくれた本に、吉田千秋さんの『もう一つの価値観』というのがありました。それで哲学者という存在を知り、どう生きるか、そもそも人間とは何か、根本的なことを考えぬくということを学問として追求するのは「面白い」と思ったんですね。それで京都の立命館大学の文学部に哲学科があったので、そこへ進みました。2000年の春でした。京都で共産党と
大学では、学科の中にあった哲学研究会というところで、ドイツ哲学の本を読み始めました。「共産主義はもう終わった」と授業で言われて、クラスでもそれが議論になって、でもなんか違うと思い、あれこれ思い悩んでいました。そういう思いを、知り合った先輩に話したんですね。その周りには、明らかに「共産党」を名乗って活動している先輩たちもいました。その人たちから科学的なものの見方ということを教わり、自分なりに模索しながら共産党に近づいていったということだったと思います。ただ勧められるだけだったら入党の選択はしなかった、と思っています。マイペースな人間ですので、自分で納得して決めないと、というところはあります。そうして自分の意思で、2000年の11月に日本共産党員となりました。