中川ゆう子

中川ゆう子岐阜県議|日本共産党

中川ゆう子の基本理念とプロフィール

プロフィール

  • 1980年5月生まれ
  • 三輪南保育所、三輪南小学校、三輪中学校卒業、県立加納高校卒業
  • 2000年 日本共産党入党(20歳)
  • 2005年 立命館大学文学部哲学科 卒業
  • 2005年 生活協同組合コープぎふ 勤務(24歳)
  • 2007年 岐阜市議選初当選(26歳)
  • 2015年 岐阜県議選初当選(34歳)現職

ご挨拶

こんにちは。中川ゆう子です。
私は1980年5月に、岐阜市三輪で産まれました。父の実家は滋賀県長浜市ですが、父が愛知県の日本福祉大学に通うために故郷を離れ、学生時代に出会った母の実家である三輪太郎丸の今の場所に住むようになったそうです。

私の幼少期は、父が動物好きだったこともあり、犬3匹、文鳥やインコ・ニワトリなど多くの動物に囲まれて育ちました。そのため今でも犬は好きです。

愛犬といつも一緒だった


私の家族-日々のくらしから政治への思い―

私の母は岐阜市三輪で生まれ育った人で、実家は元々縫製の工場を経営していました。住み込みで働く従業員の方が大勢いて、そのための宿舎もありました。主に加納にあったアパレル企業の礼服をつくっていました。その経営主だった祖父-母の実父ですが-は40代の若さで亡くなっていて私は写真でしか知りません。祖母は早くに夫を亡くし、あとは女手ひとつで2人の娘を育て、工場を守り、懸命に生きてきた人です。

母と生後3か月の中川ゆう子



その祖母は、いま85歳になります。私が8年前、市議選への立候補を決意し、「共産党から出るんだ」と話した時、いろいろ心配していました。しかし、私が当選し、地元の敬老会に市議として来賓に招かれて挨拶をすると聞くと、今まで「敬老会なんか行かない」と言っていた祖母が、友達と語らって「ゆう子が喋るそうだからみんなで見に行こう」と盛り上がり、来てくれたりしました。今では私を経由してすっかり市政にも詳しくなり「そろそろ3月議会が始まるね」「質問が始まったね」と言います。孫の私を通じて、政治とか共産党に出会ってくれたようなもので、うれしく思っています。

祖母と暮らしていると、やはりお年寄りの方が安心できるくらしを、ということを切に思います。滋賀県の父方の祖父はちょうど1年前、去年(2014年)の今頃に亡くなりました。身体の自由が奪われていくのに、それを受け入れてくれる施設がない。十分な介護を受けられず、最後は病院で生涯を終えました。施設の整備という問題は、自分の体験からも本当に切実に感じます。生活相談でもこんなことがありました。梅林地域のアパートで2人暮らしのお母さんと、40代の息子さん。4階建てだったせいかアパートにエレベーターはなく、足腰が弱ったお母さんは住めなくなってしまい、引っ越すことにした。ところが、今度は息子さんが病気で療養生活になり、就職活動もままならない。そんなある晩のこと、お母さんがトイレで転んで救急車を呼ぶことになり、切羽詰まった息子さんから私に電話が入りました。夜中でしたが、事情を聴いて、幸い三輪地域でお母さんを引き受けてくれる施設が見つかり、手配することができました。引っ越した先は長良八代のあたりにあるため、息子さんはバスを乗り継いでお母さんの施設に通うという、母子バラバラの生活を余儀なくされています。こういう状況で家族が互いに不安を抱え、互いを心配しながら別々に暮らさなければならないのは、辛いです。私はすぐ近くで祖母を見てきたからこそ、一層強く思います。そして、それは私の政治家としての原点の一つとして、常に私の心の中にあるのです。

様々な年代の方の想いを聴いてきた


 子供のころの夢と父の背中

さて、話を少し戻します。私の子供のころの話です。私は「将来の夢」というほどではないですが、周りに大勢いた「憧れの大人の人」になりたいと思っていました。エレクトーンを習っていた先生も素敵な大人で、こんな先生になりたいな、とか。両親とか祖母とか、そういう大人たちのあたたかい関係が身近にあって、「あんなふうになりたいな」と憧れたのかもしれません。そういう大人の一人であった私の父が、高校生の私に紹介してくれた本に、吉田千秋さんの『もう一つの価値観』というのがありました。それで哲学者という存在を知り、どう生きるか、そもそも人間とは何か、根本的なことを考えぬくということを学問として追求するのは「面白い」と思ったんですね。それで京都の立命館大学の文学部に哲学科があったので、そこへ進みました。2000年の春でした。

京都へ引っ越し


 京都で共産党と

大学では、学科の中にあった哲学研究会というところで、ドイツ哲学の本を読み始めました。「共産主義はもう終わった」と授業で言われて、クラスでもそれが議論になって、でもなんか違うと思い、あれこれ思い悩んでいました。

そういう思いを、知り合った先輩に話したんですね。その周りには、明らかに「共産党」を名乗って活動している先輩たちもいました。その人たちから科学的なものの見方ということを教わり、自分なりに模索しながら共産党に近づいていったということだったと思います。ただ勧められるだけだったら入党の選択はしなかった、と思っています。マイペースな人間ですので、自分で納得して決めないと、というところはあります。そうして自分の意思で、2000年の11月に日本共産党員となりました。

京都時代のたまり場「ほんやら堂」


 学びの源流

高校時代、「大学まで行かなくてもいいんじゃないか」と、思っていた時期はありました。高校は加納高校で、三輪の自宅からだと往復3時間余をかけて通いました。そこを選んだのは、音楽科や美術科のある高校で「自由な校風」を感じたこと、女子の制服がカッコ良かったこと、帰りに岐阜駅付近で遊べること、などを考えてのことでした。その高校では、いろいろな国や、そこに暮らす人々や、その様々な考え方に触れるのが自分にとって大事な勉強になるとの思いがありましたが、学校の中はいわゆる「大学受験に備える体制」にあって、自分が考えていることとの違和感を感じて、別に大学へ行かなくても…と思ったのだと思います。世界の国々への関心は、小学生のときに短期間、アメリカへ留学するという体験をしたことと関わっています。父母は縫製工場のあとに学習塾を開いて、今も続けていますが、そこの英語の勉強の一環で塾の生徒さんたちと一緒に私も行ったんだと思います。そこで子ども心に、世界の価値観の違いというか、いろんなことを知ることは大人になっていくときに大事なのだと、考えるようになったのだと思います。

立命館にて

そんな中で「1浪」して立命館へ入って、サークル活動をやりました。京都の文化や「京野菜」と言われる伝統的な農産物を研究して、伝統野菜とそれを生産する農家の方々を応援しようという活動で、周りの他大学生や社会人の方も参加していました。私は「呼びかけ人」の1人に名を連ねて、最初から参加しました。のちに「コープぎふ」に就職することになりますが、そこでは大学でのこうした活動経験を生かせるという思いはありました。自身でも食べることが好きですが、生協の運動は、産地と消費者を結んでより良い暮らしを願い、平和運動を含めて世の中を良くしていこうという運動であり、自分の生き方ともマッチした良いところでした。

新聞記者への憧れ

私は実は、新聞記者になりたかったんですね。大学時代は。きっかけは、2001年の「9.11同時多発テロ」に端を発したアメリカ軍のアフガン空爆でした。「アメリカの正義」が一方的に報道され、「しんぶん赤旗」以外では何が真実なのかが見えてこないと感じました。それで、やはり真実をきちんと伝えられる人になりたいと。それには新聞記者だと、そう思って、「赤旗」の記者になればよかったんですが、就職先として地元の新聞社も受験しました。そしたら面接で「新聞というのは社会を変えるとか、そんなものじゃない」という話があって、私は思わず「それは違うでしょう」と言ってしまったんですね。一発で、不合格になりました。

届くのは不採用通知の山

それで、新聞社を中心に求人票の中から「正社員雇用」を探し、何社も何社も就職活動のため履歴書を送り、面接に行きました。しかし、ヘトヘトに疲れて帰宅しても返ってくるのは「不採用通知」ばかり。流石に心が折れそうになりました。この頃はちょうど小泉政権が正社員雇用から非正規雇用にどんどん移し替え、雇用を破壊し、就職氷河期だと呼ばれていた時期と重なります。この時に私は、政治や社会のおかしさ、矛盾に気づき、それと向き合うようになりました。今思うと、市議会議員としての活動の原点は辛く苦しい就職活動時代にあるのだと感じます。

実体験を力に、市政へ

苦しい就職活動の末、何とか「コープぎふ」に就職でき、初心者マークをつけながらトラックで会員さんの自宅に商品を配達する仕事を担当することになりました。とても充実した毎日で、長く続けたい仕事だと、誇りと責任感を持って働きました。そんなある日、ふっと「日本共産党の市議会議員候補者になって欲しい」と打診が。最後まで悩みましたが、学生時代に感じた社会の矛盾、政治への怒りがふつふつと湧き上がり、受諾することにしました。右も左もわからない身でしたが、地域の皆さんの温かいお力添えもあり、また未熟な私でしたが、精いっぱいの訴えも実り、26歳で市議会議員に初当選させて頂きました。「すっかり議員として貫禄がついてきた」と周りには言われますが、私は常に原点・初心を忘れず、ただひたすら目の前にいる人のために議員活動をしてきました。この辺は、堀田信夫市議団長の影響もあるかもしれません。今こうやって、県政に挑戦することを決意し、市政から見た県政、という観点で様々な政策・提案を模索している最中ではありますが、どんなステージに自分が居たとしても、決して原点や初心を忘れることはないと思います。

お世話になった方との懇談



 

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